自由意志は無い

昨日の続きです。結局のところ自由意志があるか無いかは解明できない問題です。たとえ実験で自由意志は無いっぽいぞ!というような結果が得られても、それは人間の行動の一部だから全部じゃないよねと言われて終了する。自由意志の無い場面が見つかったなら、自由意志のある場面だって見つかるかもしれないわけで、その可能性を完全に消滅させることはできません。そんなこと言い出したら何だって話にならないんだけど、自由意志はあっても無くてもどうせ自覚できないのだから、それで何が変わるわけでもない。もともとどっちでもいい話なのだ。
どっちでもいいならば、どっちを選ぶかはそれぞれの自由ということになる。信仰のようなものだ。では、自由意志が無いとするとそこからなにが出てくるかというと、決定論というものが現れる。自分で自分がすることを選べないということは、自分がすることはもうすでに決まっていて、なにもかもが運命ということになる。人生や世界は映画のようになり、それぞれに与えられた時間で決められた物語を観せられているだけということになる。夢を追ったり、誰かを愛したりしてもそれは自分の選択では無い。栄冠も成功も地位も名誉も、自分で掴み取ったわけではない。悩んだり飾ったりしてできあがる自分という存在もただの役柄ということになる。
もし、人を殺したり傷つけたりしても、同じようにそれは自分の選択では無い。それどころか、自分は自分の役柄(使命)を忠実に果たしただけなんてことにもなってくる。または、(選択できない)自分にそうさせたまわりが悪いというようにも考えられる。責任という概念は消滅し、この世に悪い人はいなくなる。間違った選択というのも存在しない。この世に間違った人もいなくなりすべての人が正しくなる。何をしたって所詮映画の中の話なのだから。というわけで、自由意志が無いというのは現実とバーチャルの区別がつかない人の言い分と同じってことですよ笑。
たぶん日常に生きるほとんどの人が自由意志はあると思っているか、はじめからそんな無駄なことは考えないかのどちらかです。それなのに、自由意志なんて無いのに自分でなにもかも切り拓いているかのような気になって一喜一憂できるなんてホントおめでてーなと心の中で思うだけでなく、世間に向かってこれを高らかに宣言し、少年少女たちの夢を砕くなんて悪趣味なことをあれだけ頭のいい人たちが自分の意志でやってるわけが無い。