名もなき毒

何このリファ笑。今日は顔を真っ赤にして、オーシャンエイプスパドックが凄いと口癖のように話しかけて来る知り合いの話でも書こうかと思ったけど、また怒られるのやだからそれは思いとどまった。
話変わりまして自由意志。あのときちょっと心残りだったことを今日ふと思い出したのでいまさらですがしつこく述べます。自由意志といえば、話の中心はだいたいが反応について。君はあれがこうきたら決まってこうする。だから脳(人間)はプログラムだ!みたいな。そこででも議論の余地はあると僕は思っているのだけれど、まあそこは譲って入力に対する出力が決まっているから自由意志は無いって言うじゃない(←最先端の言い回し)。でも、自由意志の真骨頂は誰も何も入力してないのに人間何かするってところだと思うわけ。人工知能みたいな血の通わない仕掛けはファミコンの時代から搭載されてたわけで、あれに意識があったとは誰も思わない。無からなにかが湧き上がってくるようなときこそ自由意志の存在を感じられるのではないか。
では、何の入力もない状態、厳密に言えばそんな状態*1は実際にはありえないのでまあ自由時間ぐらいを想定したとき、人は何に従って動くのかなあと。うーん粘土を出されたら何を作るかの方がいいかなあ。ちょっと力不足でうまく言えないけど、結局そういう時って自分らしさというか理想の自分みたいなものがあって、それに向かってそれっぽく振る舞おうという流れになっているんじゃないかなと思ったのね。で、これだとプログラムにも見えるけど、わりと自由意志だとも言えるんじゃないかなあと。何を理想とするかの部分はわりと自由度がありそうな無さそうな・・。もしこれでもそれは自分の意志で無いと言うのなら、ああとにかくなんでも人のせいにしたいんだなあってことになるんじゃなかろうか。
競馬で馬券や予想が悲しくなるほど当たらないとき、自分の甘さや浅はかさなどを考える前にそれを人のせいにしてしまったりする。もしくはそれを隠そうとしたりする。競馬は社会的に下品とされるれっきとした博打であるし、それをやる人は博打で楽して儲けようなんて邪な考えを持っているダメな人間で、そのうえそれで金をドブに捨てるかのように失うなんて事態を他人に見られたら、いやたとえ自分だけしかその醜態を知らないとしても、常識的な人間であれば少なからず罪悪感とか自己嫌悪とかにさいなまれてしまうのは当たり前。この辛い現実に耐えるためにそれを誰かのせいにして自分の傷を自分から切り離す。ヤリヤラズを唱えたりするのはそういう傷の裏返しってことなのだね。だから、競馬は純粋で茜空の下で公正に行われている競走なんだと信じてる人はそういう傷を持たない健全な人間か、もしくは負け知らずの天才かのどちらかだってことになるね。うらやましいわー。
ということは、何でも人のせいの決定論や自由意志は無いという主張を頑なに繰り返す人とはどういう人なのかなんてことまで大人になった僕は言わないけれど、上から目線でそう自分に言い聞かせたくもなる気持ちは痛いほどわかってるよとか言ってみたい。ちなみにそんなことを口癖のように話しかけて来る知り合いは現実世界にはきっといない。

*1:しなければいけなことが何もない状態とか何の情報も記憶も無い状態など