言ってもわからぬ馬鹿ばかり

諸葛亮の兄・諸葛謹は鋼鉄三国志ではマッドサイエンティストみたいな変人キャラにされてるけど、一般的には私情に流されず主・孫権への忠義を貫いた真面目な外交官てな感じだろう。時には孫権に対し厳しいことも言い、孫権も喜んでそれを聞いたらしい。関羽が死に、劉備が復讐のため呉に攻め入ってきたときには劉備に対し「陛下の気持ちはわかりますが、きっと漢の先帝はそんなことを望んではいないはずです。私怨やちっぽけな土地のことよりも天下のためになることを考えたらどうか」という手紙を送った。そんな道理をわきまえた諸葛謹であったが、顔は馬面だったらしい。
あるとき、宴会の席で孫権がふざけてロバの顔に「諸葛謹」と落書きをしてからかった。それぐらい仲良しだったということだろうけど、諸葛謹の息子・諸葛恪は父を馬鹿にされたことが気に入らなかったらしく、その落書きの下に「のロバ」と書き加えた。一同はこれを見て諸葛恪の機転に感心した。また、議論をすれば諸葛恪に勝てる者はひとりもいなかった。しかし、父・諸葛謹は息子の溢れる才能を見ても、あいつは頭が良すぎてかえって身を滅ぼすことになるから知力は89と言って嘆いた。
やがて諸葛恪は異民族を帰順させ陸遜のあとを継ぐまでに出世し、孫権が死ぬ際には幼い2代皇帝・孫亮の補佐を任される。魏は孫権の死をチャンスと見て、呉への侵攻を開始。諸葛恪は軍を率い東興でこれを迎え撃った。戦いは宿将の丁奉が仕掛けた奇襲が大当たりし見事に魏軍を撃退。この勝利によって全権を握った諸葛恪は国内の反対の声を押し切って翌年魏への大規模な遠征を開始する。ところが魏の防衛拠点・合肥新城を攻略することは難しかった。諸葛恪は意地もあって簡単にはあきらめず、いつまでも包囲を続けていたために余計な被害を重ね、しまいには疫病に見舞われ壊滅的打撃を受けようやく撤退する。
懸念されたとおりの敗戦によって非難されることを恐れた諸葛恪は自分の屋敷に引きこもり、自分に近い者だけを重用し恐怖政治を開始する。これによって人々に恨まれ、父の予言通り、最後は酒宴の場で暗殺された。呉はこの後も政治的なゴタゴタを繰り返し、自滅への道をたどり、三国時代は幕を閉じることになる。