美しい思い出

小学校の頃、友だちとマンガを描いて見せ合って遊んだことがあります。マンガと言ってもお互いそのような才能が特別あったわけでもなく、おまけに子供だったわけでめったに面白いものはできあがりません。それでもはじめのうちはそれなりにふたりとも面白がっていました。きっとその遊びが新鮮だったということと、多少は楽しめるネタを持っていたのだと思います。しかし、そのうちわずかにあった持ちネタも枯れてくるし、この遊びそのものにも飽きてくる。そうなるとお互いがマンガを見せても「うーん」などと反応が悪くなってくる。反応が悪くなればモチベーションも下がってくるので、ますますクオリティは下がってくる。とはいえ一応考えて頑張って描いてるわけだから、自分でつまらないとわかっていてもそういう反応は嫌なものだった。だいいち遊びでやってるはずなのに、辛い思いをするというのも意味がわからない。
ここで心優しく聡明な子供時代のおれは相手の繰り出してきたすでにマンガと呼べるかどうかもあやしい作品に対し、喜ぶフリをするという行動に出た。自分のために作品を書いてくれた相手への温情というかまあ愛想笑いってやつだ。するとどうだろう、驚いたことに次のおれのターンでは相手も同じようにおれのくだらない落書きを面白いとか言い出しやがったのだ。デキの悪い作品におれが反応したことに対する恩返しというわけだ。当然、それが本当に面白かったはずはない。相手を誉めてやったかわりに自分も誉めてもらうことができたのだ。
そうこうしてるうちに、いつしかこの遊びは相手の作品を誉めないと自分の作品も誉めてもらえないという状況に陥った。つまらないものを面白がるのにはエネルギーがいる。せっかく面白がってあげてもその見返りが無いのなら面白がってやるだけ損ということになるのだから当然だ。相手がそれを怠るのなら自分だけ真面目に働くのは馬鹿馬鹿しいというわけだ。そこにはもう作品の良し悪しに対する評価など存在しなかった。重要なことは相手が自分の作品をいかに嘘っぽくなく面白がったかという点のみであった。たとえ面白い作品であってもその直前に相手がうまく演技できなかった場合は冷たい反応を返すしかないのである。
彼はわりといい奴だったし、それからも頻繁に遊んでいた覚えがあるけれど、卒業してからは疎遠になりもちろんいま彼がどこでどうしているのかなんてことはまったく知らない。