欠けた心

こんな性格なもんで問題点を見つけ出すことがやめられない。自分の問題点探しはやり込みすぎて飽きた。相手が自分自身であるからひとりで将棋をやっているようなもので別段面白くもない。しかも自分のソレについて考えすぎると勢い余って闇に飲まれるので危険。なるべくソレについては深く考えないようにすることが大人のマナー*1。そこから目を逸らそうとして行き着く先は人の問題点ということになる。
あらためてそういう目でまわりを見わたすともう問題点が足を生やしてそこらじゅうを歩いているように見えてくる。昔から普通の人というのは問題が無いから普通の人として生きていけるのだと考えていたのだけれど、それは間違いで、誰にでも光を当てれば影が出る。で、きっとそういう問題を普通の人が日常の中で誰かに話したりすることはそう簡単なことではないと思う。なにかの拍子に状況が整って話すことができたとしても、通じなかったり「そんなのたいしたことないよ」で片付けられたりとかね。それだからますます問題はややこしいものになる。だからまあできることならひとりひとりにおれはわかるよ!と言ってまわりたいぐらいなんだけど、まわりから見ればおまえこそ大丈夫かという図になるわけでたったこれだけのことでも実行するのは難しい。
おまけに、こういうのって風邪をひいた人に向かって「早く寝ないからだ」とか「うがいしないからだ」とか言うのと同じで、いま実際に困っている人に向かってなにが問題だったかを明らかにしてもあまり役に立たない。今後のためにはなる可能性があるけれど、先日おれや心あるみなさまが身をもって示したように、どれだけ的確に問題点を指摘したとしても、本人にその声が届くかどうかはまた別問題なのだ。といって、例えば借金苦の人の借金をかわりに埋めてあげたとしても問題は解決したとは言いがたい。
したがってどれだけ人の問題点を嗅ぎつけたとしても、他人がその人のために実際にしてあげられることなんて現実的にはなにも無いのだ。でもだからこそ、それでも力になってくれようとする人にはそれだけの価値があるし、そうすることでその人は自分の問題を束の間忘れることができるのだ。

*1:ただし、それではいつまでたっても解決しない