好き嫌いと揉め事に関する基本的な話

単純な話、人が全能であるわけがないので、目を凝らして見れば誰にだって傷はある。その傷を欠点だと言うこともできるし、単なる模様だと言うこともできる。どんな理屈をこねてみても結局欠点が気になるということはその人が気にいらないというだけのことであり、その程度は欠点のうちに入らないと思ったのならその人間に好意的であるというだけのことなのだ。逆に考えれば、欠点を見つけて見逃して初めてその人間を認めたことになる。
ではなぜ好意的だと欠点が気にならないかというと、それ以外の要素でもってそれを補って余りあるという多面的な判断があるからだ。価値はひとつだけのものさしでは決められない。甘くておいしい食べ物に向かってちっとも辛くないじゃないかというのは筋違いだし、ニンテンドーDSは食べられないけど価値がある。それぞれに良さがあって欠けているところがある。
とはいえ、誰にだってうっかり失敗するということはあるし、何が失敗なのかがたまたまわかってなかっただけというような場合もある。そういうときにチャックがあいてますよと言ってあげるのは好き嫌いとは関係無い。むしろ嫌いだったらそのままにして勝手に醜態を晒し続けていればいいんじゃねーのおれには関係ねーしという悪意ある見殺しがあるわけだから、どちらかといえば親切と言えるのかも。
ただチャックがあいていると大声で言われるとそれはそれで迷惑にもなりえる。そっとしておけば誰も気づかなかったかもしれないものを世間に向かって高らかに宣言するわけだから、指摘されて激昂してしまう人もいるだろうし、その光景そのものが不快だと言う人もいるだろう。また、別のパターンとして、そう言うおまえも昔あいてたじゃねーかというのも見かけるけど、過去も含めて完全に潔白な人なんてなかなかいないのではないか。それにあき方にも程度がある。なんでもかんでもいっしょくたにしてしまうのは乱暴だ。
あれが気にいらない、これは許せないとカタナを振り回して周りの木をかたっぱしから切り倒し、気がつけば小さな切り株の上でひとりぼっちみたいな人がいたら笑っちゃいますよね。もしいたらの話ですけど。