じかんげんしゅを漢字まじりにしてみた

じかん げんしゅは ちこくする ひとに めいわくが かかるので やめて ください(やねごんの にっき)
http://d.hatena.ne.jp/lever_building/20091117


教えて!goo」に高校生だという方からのこんな質問がありました。

学校で遅刻をすると誰にどう迷惑が掛かるのでしょうか。

僕は公立高校に通っているのですが、遅刻をするたびに

「人に迷惑が掛かっているのがわからないんですか!」と先生におこられます。

授業が始まったらもう教室には入らず次の授業から参加するようにしています。

このままだと、将来自分が困るのはわかりますが、

正直誰に迷惑が掛かっているのかわかりません。

教えてください。

えーーーーっ?意味のわからないことを言う人ですねえ。もちろんこの質問をした方ではなく、たかが授業に遅刻をしただけで「人に迷惑がかかっている」と怒る先生がです。
質問者は先生から「わからないんですか!」って怒られたんだって!いったい誰に迷惑がかかってるというの?私もわかりません><私にも教えてください!
そう思って回答を読んでみたのですが、どれもこれも理解に苦しむ回答ばかりです。
例えば、こういうの。

まあ、あなた一人がいないぐらいは

実害はさほどないと思います。

でも学校というところは建前上

集団生活を覚えるところとなっています。

古くは軍隊が基本なんですよ。

ですから秩序が大切です。

あなたの遅刻を見逃すと

他の生徒も「ぢゃあ俺も・・」

次々と遅刻しだすと思います。

そうなると遅刻だらけ

空席だらけの授業となります。

「そんなの個人の自由ぢゃん。受けたくない授業

無理に受けなくてもいいぢゃん」

とできるのは大学からです。

高校までは憲法でも教育の自治は制限

されています。ある程度の秩序に基づいて

運営していかなくてはならないのです。

そのルールを既に破ってる貴殿は

そういう秩序を破壊しようとしているのです。

そういう意味で

授業の秩序を壊したくない教師の迷惑

秩序が壊れかけたクラスで授業を受けなくてはならない他の生徒に迷惑

がかかっているのです。

くれぐれも参考まで

この回答は――あとでまた触れますが――ある意味で問題の核心を突いた鋭い指摘が含まれたものだと思います。
しかし、驚いたのは憲法では高校生の自治を制限しているのだというくだり。不勉強なので知りませんでした。「憲法」ってたぶん「日本国憲法」のことですよね。この人は「古くは軍隊が基本なんですよ」とおっしゃるのですが、そもそも「日本国憲法」では軍隊を持つことをたしか禁止していませんでしたっけ?私の知らないうちに新しい憲法ができたのでしょうか?
ほかの回答者でも「憲法でさえ認められている自由は、貴方の頭の中では何を考えてもいいという自由のみです」と書いている人がいたりして「ギャー憲法こわい」って思いました。
ただ、上の回答者の「秩序を破壊しようと」することが「授業の秩序を壊したくない教師の迷惑」であるとの言い分は、ひとつの筋の通った考え方だとは思います。もっとも、これとは反対に、<<いまここにある秩序を維持しようとすることは、その秩序を壊したい人への迷惑である>>ということも言えると思います。その意味で、遅刻の許されない秩序を作り上げている一人一人が、遅刻する人に迷惑をかけていると言えるのではないでしょうか?
さて、回答者のなかで一人だけ<<誰にも迷惑はかかっていない。ただ、ルールなのだ>>という意味のことを書いている人がいますが、この人を除く回答者はみんな<<迷惑だ>>と書いております。しかし、その迷惑の内容というのが例えば次のようなことですから、まったく納得できません。


1.授業が中断されるのがほかの生徒や教師に迷惑。
2.来るはずの時間に来ないことで教師に心配をかけるので迷惑。
3.教師に出席簿に遅刻の印を付ける手間をとらせるのが迷惑。


1.については、「わざわざ中断しなきゃいいじゃん」と言えますし、そもそも質問者は「授業が始まったらもう教室には入らず次の授業から参加するようにしています」と書いていますので、この理由で迷惑になることはないはずです。
また、2.についても同じように「心配しなきゃいいじゃん」と言えますね。教師は遅刻が「めずらしい」「普通ではないこと」だと考え、遅刻をしないことを生徒たちに無理強いしているから、生徒が遅刻すると「心配」になるのです。ここはひとつ思い切って発想を転換し、遅刻を生徒の当たり前の権利として認めましょう。生徒たちも遅刻したいとき、あるいは遅刻せざるをえないときは、言い訳なんか必要ありません。正々堂々と遅刻しましょう。遅刻が普通で当たり前のことになれば、教室に来ない生徒が数人、あるいは数十人いたからといって心配になることはないと思います。というか、生徒の心配をすることが教師の仕事のやりがいになってたり、ということはないの?知らないけどさ。
3.も簡単に解決できますね。出席の確認なんてやめちまえば済むことです。


それにしても不思議なのはこの質問者のケースでは、どう考えても遅刻が迷惑になるとは思えないのに、回答者のみなさんはなぜそれを「迷惑だ」と言い張らずにはいられないのか、という点です。
たしかに、仕事なんかだと<<来るはずの人が時間通りに来てくれないと予定されていた仕事を進められないので困る>>といったことはあるでしょう。でも、この質問者のケースは明らかにそうではありません。
では、どうして回答者の人たちはかなり無理のある理屈をこねまわしてまで、遅刻が「迷惑だ」と言わずにはいられないのでしょうか?
それは――私の憶測ですけど――「決められた時間通りに登校・出社する」というルールがアホらしくくだらないどうでもいいものだということを、回答者の人たち自身が正しく認識しているからだと思われます。重要な待ち合わせなどがあるならともかく、月曜に10分早く出社したなら、火曜日は出社時間を10分遅らせればいいじゃん。たいがいそれで不都合などないのだろうし。「毎日9時前までに出社してタイムカードを押さなければならない」なんてルールは労働者の権利を不当に侵害するものにほかなりません。


搾取された時間を取り戻したい - planet カラダン

以前、私が勤めていた会社では、9時始業なら8:59までにタイムカード打刻しないと遅刻だった。こんなの当たり前のことでどこでもそうなのかもしれない。9時0分台に打刻してるってことは数秒遅刻してるわけだから。しかし、会社のために差し出す時間が秒単位で厳しく管理されるなら、神聖にして不可侵であるはずの私有時間=プライベートタイムもそれくらいの厳しい眼差しで尊重されるべきだ。もし仮に、8:59:59に打刻できたとしても、1秒が不当に奪われてる!!!

ひどい会社になると、タイムカードの機械云々ははじめから論外で、始業時間には席に着いてないといけないとかなんとか条件を付けて平気な顔をしている。10分なり15分前に出社して準備をしておけというわけだ。だからその10分15分を不当に差し出させて平気な顔してるのは何なんだよ! この泥棒!

また逆に、終業が17時だったとする。その場合、神聖なるプライベートタイムは17:00:00きっかりから開始されなくてはならないはず。とすれば仕事なんて15分なり30分前に切り上げて、私有時間に向けて準備をさせてもらってもいいんじゃないの。「バイトの女の子*4が定時の1分前からタイムカード持って待ってるから、『ヒマなら仕事してよ!』って言って数分サビ残させてやったよ。うへへ。」みたいな感覚の雇用主は即刻牢屋にぶち込んで良い。現行犯逮捕。

そういうわけです。なお、このRomanceさんの記事はほんとにすばらしい文章ですので、ぜひリンク先で全文お読みください。


さて、明らかに不合理でくだらないということがわかりきったルールを守るということは、権力に屈服するということです。権力に屈服するということは、おそらく多くの人にとってみじめなものでしょう。そうしたみじめさを感じずに生きてゆきたいものですね。そして、権力と戦わずにみじめさから逃れるためには、自分が権力に屈服しているという事実、不合理なルールに従っているという事実を忘れなければなりません。つまり、実際は不合理なルールに従っているにもかかわらず、そのルールが「合理的な理由がある」ものだと思い込めば良いわけです。
ところが、ここにおいて、実際は合理的でないルールを「合理的なルール」と思い込んでいるのですから、そのルールの合理的な説明を求められてもこの人は合理的に答えられるはずがありません。不合理があたかも「合理的」であるかのように通用するのは、その合理的な理由を問う人が誰もいない限りにおいてです。不合理は問われない限り「合理的」であり続ける。
しかし、誰か一人が「どうして?」「なぜ?」「なんのために?」という質問を発した瞬間、「合理性」の見かけは剥がれはじめ、その「不合理」あるいは「不条理」があらわになります。だから、不合理な「合理性」を保守したいと望む人たちは、理由を問う質問者が現れると、よってたかってその質問者をけむたがり、いじめ、その口を封じようとするでしょう。
先に引用した回答の一部を再び引用します。

ですから秩序が大切です。

あなたの遅刻を見逃すと

他の生徒も「ぢゃあ俺も・・」

次々と遅刻しだすと思います。

そうなると遅刻だらけ

空席だらけの授業となります。

おそらくこの指摘は、的を射てると思います。
くだらないルールはたくさん存在しています。そういったルールは「みんなが守るはずだ(=抜けがけするやつはいないはずだ)」という互いの信頼(相互監視?)によって、かろうじて支えられているものです。その点でそのようなルールによって保たれた「秩序」は実は案外もろいものなのかもしれません。
誰かが「そんなものはくだらない」と言い、そんなルールや義務など存在しないかのようにふるまえば、そのまわりの人もそのルールや課せられた義務に忠実であることを馬鹿馬鹿しく思いはじめるかもしれない。そして、馬鹿馬鹿しいと思う人の人数がある一定の閾値を超えたとたん、古い秩序はガラガラと崩れはじめ、そこに私たちは別の世界を見ることができるかもしれない。
そんなことをときどき夢想したりします。統制なきゼネスト。指導者なきゼネスト
もっとも、私は「合理性」を争うことに興味なんてありません。ただ、くだらないと自分が思うものを「合理的」と思い込み言いつくろうような態度を憎みます。
誰も支配はしたくないし、誰からも支配されたくない。ただ、それだけの前提で人間同士互いに「合意」できることはたくさんあるはずなのです。そこに「合理性」なんて持ち出す必要はないように思います。